最近、プロフェッショナルとして音楽をするにあたり自分が大事にしたいもの、またプロフェッショナルな音楽家に対して自分が惹かれるものはこういうものなのではないか、と漠然と考えていて、形になりつつある。以下のことは、僕が演奏しているアイルランドなどのケルト音楽に限らずに書いています。
第一に主体性。
「何を、なぜ、どのように」やりたいのかというのが明確であること。
「何を」…やりたいことがハッキリせず、与えられたものだけをやっている人は多いように思う。自分が弾く曲を自分で見つけ出せこと。
「なぜ」…売れている、流行っているから、というのは理由にはならない。その曲を弾くのが自分でなければならない理由、自分が弾く曲がその曲でなければならない理由が明確であること。
「どのように」…それをどのように弾きたいのか明確でなければならない。CDを聴いていて良い曲だったからこの曲を選びました、だからこのCDのとおりに弾きましょう、この人みたいに弾きたいです、ではそこに自分が無い。
第二に独創性。
誰かにあこがれて、頭の中にその人を思い描いて、そのように演奏したい、というのはプロとは言えない。どんなに上手くその人のように演奏出来たとしても、二番煎じは絶対に一番手に勝つことが出来ないし、それが外国の音楽であれば尚更、外国人である自分がやる必然性が無くなってしまう。
独創性というのは何も、奇抜なことをしなさいとか、オリジナル曲を書きなさいとかいうのではなく、その人そのものが音楽に現れることが大事なのだと思う。
第三にエンターテイメント性。
見る人を意識しているのかどうか。もちろん、お客さんにおもねるべきだとか、舞台でジョークを言って観客を沸かせるべきだと言っているのではない。
自分がやりたい音楽が出来て嬉しい、それをお客さまにも見てほしい、というのは自己満足だ。自分が得意なこと、やりたいことで、お客様に感動して頂き、何かを感じ取って頂きたい、というのがプロとしてあるべき姿勢なのではないだろうか。
文章にとっても言えることで、昔はMIXIをやっていたけれど、しばらくしてほとんどの日記がただの独白、読み手を意識していないだらだら書きであることに落胆してしまった。僕は、その点ではつねに読む人の目線を意識して書いていたように思う。
残念ながら、身近なところでこの3点を満たしている演奏者は、非常に少ない。誰かのコピー演奏にとどまってしまっていたり、流行の曲を流行のスタイルで演奏しているだけだったり、お客さんにおもねってスタンダードナンバーばかり演奏していたりする。極端なところでは、演奏技術が未熟なのに、お客さんを無視した自己満足的な演奏でお金を貰っている、ということすらある。プロという自覚すらないのかもしれないけれど…。
そういう意味において、Fiary Danceのメンバーは本当にすばらしい面々だと自負している。
アイリッシュに関係したところだと、最近聴いた守安功さんの「オキャロラン曲集」はびっくりするくらい独創的ですばらしかった。あまりに理想郷的な音楽で、「守安さんワールド」ではあるけれど、それは氏にしかできない音楽という意味においてとてもオリジナルなものだ。実は、このCDを出していらっしゃるWAONレコーズさんでは、僕の先生の録音も作っている。お互いに面識はなさそうだけれど、何かのご縁かもしれない。
それに、先日東京で録音した、吉原さんの完全にオリジナルだけのCD製作も注目すべきことだと思う。
アイリッシュに関係のない東京のアコースティック・ミュージシャンに惹かれる理由は、この3つをきちんとクリアできているからなのだ。先日の「尺八とお琴とウードとレクでアラブ音楽」も、とびっきり面白かった。
自分はこの3つをいつまでも心に留めていきたいと強く思う。